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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑭~


熱した鋼を鎚で打って鍛錬し、包丁鉄に加工する本場での作業の様子
                      (レプリカ)鉄の歴史博物館
         
~名大工 故渡部平助氏~
たたら製鉄では、鋼だけでなく鉄製品の素材となる包丁鉄も出荷されるのですが、包丁鉄を仕上げるのになくてはならない作業が大鍛冶です。『語り部』に登場する故渡部平助氏は、吉田町の杉谷にあった大鍛冶屋の大工職でした。杉谷山内には三十軒に及ぶ大鍛冶集団が形成されていました。祖父の政兵衛は大鍛冶の名人といわれ、彼が鍛錬した包丁鉄は「政兵衛鉄」と呼ばれ、その名声は大阪の鉄問屋まで知れわたっていました。
大鍛冶屋には炭素を多く含んだ銑鉄から炭素を除く(脱炭する)左下場と、左下場で脱炭された鉄。ただし鉄とはいってもまだ炭素や不純物が残る鉄をさらに鍛錬して、不純物を除いたり炭素分を調整し、形を整えた包丁鉄とよばれる鉄素材を作る本場があります。
左下場では火窪に小炭を投入する作業、鞴(ふいご)を扱う作業、銑(せん)を熱する脱炭職の三人が従事します。本場では、脱炭された銑(左下鉄:さげがね)に鉧(けら)を加えて鍛錬し、包丁鉄を作ります。この作業には大工職を筆頭に、鉄を熱する左下職一人、鉄を順番に打つ向打(むこうち)四人、鞴(ふいご)を受け持つ吹差(ふきさし)のほか雑事をこなす小廻り(こまわり)の八人が当たります。


大鍛冶で仕上げられた包丁鉄

たたら操業を指揮する村下の技術は一子相伝(いっしそうでん)で、代々長男が村下になって秘法を受け継ぎますが、大鍛冶の大工と左下専門職は秘法を守ることはなく、他人でも技術が継がれます。平助氏は名大工の祖父から「ぼろくた(下手)大工と言われるようなら大工の修業をしなくてもよい。苦労してでも(りっぱな)大工になる決心があればやってみよ」と言われ、十三歳で大鍛冶屋での雑事の手伝いを始めました。大正元年(1912)のことです。平助氏は三年後の大正四年、十六歳で本格的に大工職の修業に入り、苦労の連続の末、やっと一人前の大工になれました。大正四年というと、田部家では永年の鉄山稼業が閉山態勢に入り、残されたたたらは二か所、大鍛冶屋も二か所だけとなっていました。しかも残った各施設の収益も半減したため、専属労務者が半減された年であり、残されていた杉谷大鍛冶屋で働く人々も転職を余儀なくされ、市場に出荷する炭を焼く「焼き子」となる人もありました。
平助氏は、杉谷大鍛冶屋が閉山する大正十四年まで働き続けたわが国最後の大工でもありました。氏は「問屋で各地の大鍛冶屋の包丁鉄が井桁状に積んで(保管して)あるが、下から上まで(すべて)錆びているものもあれば下から半分くらい錆びているものもあった。しかしここの鍛冶屋の包丁鉄は下から上まで一枚も錆びていなかったそうだ」と語られたことがあります。自分が打った包丁鉄とは決して言わないのが平助氏の心構えでした。

引用文献 「鉄の歴史村 AGORA BOOKS1」
                  発行 公益財団法人 鉄の歴史村地域振興事業団 

次回は大鍛冶屋の現場での作業の様子をもう少し詳しくお伝えすることにします。

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