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『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑫~


5月 新緑の菅谷たたら山内

田部家とたたら経営
 松江藩の時代、鉄師への保護政策によって成り立っていたたたら経営ですが、幕藩時代が終わるとともに保護政策もなくなりました。その上、明治時代に入ると安い洋鉄が輸入されるようになり、飯石郡南部の鉄師たちは経営困難に追い込まれました。この窮状を救ったのが吉田町の田部家だったのです。
 田部家は、神戸村や来島村(当時)のたたらを引き取って引き続き操業を行っていますが、その目的は営利のためではなく、たたらで生計を立てていた労務者の生活を維持、補償することにあったのです。しかし、田部家自体のたたら操業も明治時代は決して楽ではなかったのですが、飯石郡内の旧広瀬藩領(で経営困難に陥った)鉄師の救済は田部家が引き受けざるを得ない状況であったと考えられると『語り部』は記しています。
 実は、鉄師たちがたたらを経営することは何を意味するか、大変興味深い数字が『語り部』に載っています。明治16年(1883)にたたら経営の窮状に対する「たたら稼永続資金拝借願書」という嘆願書が島根県に提出されています。(同年7月、田部家、糸原家、桜井家、秦家の連名で提出された「鈩営業窮民救済資金願い」のことか)
 これによると、当時、田部家が経営していたたたらは10か所、大鍛冶屋が17か所もありました。このたたら関連施設の専属の従事者は4,062人、その他鉱業に関する従事者は10,310人(いずれも家族を含めた人数と思われる)でおよそ15,000人の人々がたたらを生活の糧にしていたことになるのです。つまり、田部家のたたら経営の廃業は、これだけ多くの人々の生活も成り立たなくなることを意味していたのです。
 救済の嘆願書には、「私個人が生きるために稼業を廃止すれば製鉄事業に頼る20,000人近い人々は餓死すること必然であり、このことは死すとも行わず貧しき人々と共に生きる覚悟なくしてこの稼業相い営まり申さず」とあります。田部家をはじめとした奥出雲の鉄師たちは皆この気概をもってたたら操業を営んでいたのかもしれません。
鉄の産地であった中国地方では、安い洋鉄に押されてたたら製鉄稼業を廃業し、他の事業に移行した鉄師が多かった。(一方)奥出雲地方の鉄師は、永年にわたり住民とのつながりがあり、稼業を廃業して鉄師だけ生き残ることはできないと考えました。何万人もの貧しい人たちが路頭に迷うことを見過ごすことができなかったのです。そこで年々損することが分かっていても、苦しい稼業が続けられていたと『語り部』は記しています。
 こうして何とか乗り切ることができた田部家のたたら経営は、大正時代に入るといよいよ困難となり、製鉄業から製炭業への移行を余儀なくされていきます。その際も多くの山林を抱えていた田部家はたたら、大鍛冶従事者に炭焼きで生計を立てる道筋を立てていたのでした。
 『語り部』には、田部家のたたら、鍛冶屋に従事した人々の組織図が載っています。一か所のたたら、鍛冶屋を抱えるだけでこれだけの人々が家族を持ちながら暮らしていたことになります。こうしてみると、田部家の営むたたら操業がたたらで暮らす人々の生活を支える重要な産業であったことは間違いありません。さらに、著名な鉄師たちによって開かれた近代たたら製鉄は今日の奥出雲部を築いた礎の一つといえるかもしれません。



お知らせ
 現在修理工事中の高殿は、竣工が10月から11月となる予定です。これから壁塗りの工事が始まります。
工事中には工事見学会の第2弾を予定しています。

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