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歴史の幸

歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑤~

 
山内を見下ろす丘に建つ「山内生活伝承館」
今回のテーマである「炭焼」に関する道具や資料をはじめ、かつての山内の暮らしを紹介した絵画、 生活道具が展示してあります。


たたら製鉄を語るのに「粉鉄(こがね)七里に炭三里」ということわざがあります。この言葉は製鉄稼業で、粉鉄は荷が小さいので運搬しやすいが炭は荷だきが大きいので運搬費用が(大きく)かかり、三里以内でないと採算が合わないということとされていた。(しかし堀江)村下の話では、―中略―炭は三里も行かなくても炭山はあるが、粉鉄は七里でも行かねばならなかったことではないか。と『語り部』は記しています。解釈に違いはありますがたたらを吹くのに粉鉄(砂鉄)と木炭が必要なことは言うまでもありません。
歴史物語①でもお伝えしたように、かつて炭を焼く山は鉄師の山でも農民の山でもなく、領主(殿様)の山でした。田部家を始めとした鉄師は松江藩から山を借りてたたら用の炭を焼いていたことから「殿様の御鉄山」が「鉄山」とよばれるようになったとされています。

たたら炭伐採の歴史―『語り部』炭焼の掟より
野たたらから永代たたらに移ると、木炭の消費は増大しました。木炭(をつくるため)の製炭林は藩地であり、鉄山として鉄師に貸付けられた山で、藩庁は炭焼の掟を発しています。
山子(山内でたたら炭を専門に焼く労務者)についての掟は「山内申渡頭書」が安永三年(1744)菅谷永代たたら建替えの七年前に松江藩から出されています。それによると、
一.山子は炭木を切るには、山際より切り、枝木に至るまで無駄に捨てないこと。炭灰は一切よそに使ってはならない。―中略―
二.木は示した山以外で樵(こ)ってはいけない。薪(たきぎ)、雑木、細木をけずるのはもちろん、炭焼人はそのけずり木を拾って焚くことを忘れてはならない。もし心得違いをした者は後で取調べにおよぶ。
三.米貸しは一貸より余分は一切しない。また、我慢休みなどした者は必ず処分する。
―中略―このように単に炭を焼くといってもたたら炭の場合は藩から事細かな制約が出されていたようです。
 (また、)木炭の需要が多かったので各地で炭材の盗伐があり、松江藩では次のような対策が講じられています。(盗伐の防止として)木の伐採刃物の制限が厳しく定められ、山に入るときには、鋸とか鉞(まさかり)を携帯してはならない。万一携帯して山にいた場合は盗伐者として厳罰される(というのです。この理由を『語り部』は)鋸や鉞を使って木を伐採すると(木を切る)音が小さいので(盗伐が)発見されにくい(から)としています。松江藩が考えた鋸や鉞使用の禁止の根拠にしては、何か稚拙な感じがしないでもありません。
 (それでは実際に山子に許された刃物は何だったのでしょうか。)山で木を伐採する刃物は「木切り」以下の小刃物であること。木切りは木を叩くようにしないと切れない、伐採のときに音が「くわん、くわん」と山に響くので伐採者のいることがよくわかるからである。―中略―
 木の伐採に使われていた「木切り」全長65cm (山内生活伝承館)
木切りの峰の厚さは1.4cmもあって重量があり、振り上げるのに体力を要します。

 吉田地方には昔から炭木を切る格言のような伝承がありました。あるところに炭材を切るのが非常に速い人がいた。他の人がその人の息子に、どうしたら速く切れるのか親父さんに聞いてほしいと頼まれ、息子は親父に聞いてみたが、「毎日並んで木を切っているのにまだわからないようでは教えても無駄だ。」と言って教えようとしなかった。その父親が病気になり、明日も知れぬ状態になったとき息子は枕元で木切りの教えを願った。すると父親は最後の大きな息を口を大きく開いて吸い込み息絶えた。それを見て息子は(父親が)木の切り口を大きく切れと教えたと知った。炭材を(鋸も鉞も使えず)木切り(だけで、しかも効率よく)切るのには独楽(こま)のように切るしかない。(そのためには)「切り口を大きく切れ」という伝承である。
 
『語り部』に描かれた独楽形の切り方

このように幕藩時代、厳しい制約の中で行われていた炭焼ですが、たたら操業では単に炭があればよいのではなく、炭の質が鉄のできばえを左右していました。次回はたたら操
業と木炭についてお伝えします。

   
伝承館内部の炭焼関連の道具と資料

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