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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語③~



       
       昭和43年(1968)当時 高殿での炉の構築作業の様子                
        中央が故堀江要四郎村下

鉄穴(かんな)流し (前編)
たたら製鉄といえばすぐに思いつくのが「鉄穴流し」です。たたら製鉄に必要な砂鉄を効率よく採取する方法として考え出されたのが鉄穴流しでした。この鉄穴流しは過酷な労働ではありましたが、すでに近世のころからたたら場周辺の農民の暮らしを支え、結果として奥出雲部にたたら製鉄の一大産業をもたらしたのです。今でも菅谷たたら山内など吉田町内には鉄穴流しの選鉱場の跡が現存しています。今回は鉄穴流しの前編としてその歴史を振り返ってみることにします。以下は『語り部』の各章に記されていた鉄穴流しに関する文をまとめたものです。

近世初頭、永代たたらが誕生した当時、ますます必要となった砂鉄を山間地の農民は鉄穴流しを副業とすることで暮らしを支えていました。やがて鉄穴流しで流された土砂は斐伊川に流れて堆積し、天井川となったため、洪水をもたらして下流域の農地や農民に被害を与えるようになると松江藩は斐伊川の鉄穴流しを禁止してしまいます(1613年~1636年)。この間、砂鉄が入手できなくなった鉄師は経営が困難となり、副業ができない農民も苦境に立たされました。しかし1637年に鉄穴流しが解禁され、再びたたらの経営ができるようになると、1648年には、斐伊川下流域に暮らす住民を考慮して鉄穴場を縮小し、御買鉄制度が始まります。この制度により松江藩は、たたらを経営する鉄師に他領に鉄を売ることを禁止して鉄を一手に買い上げ、藩の利益とする一方、鉄師にとっては炭焼き、砂鉄採取が可能となりました。鉄穴流しを行う山間地域と斐伊川下流域との対立は続いていましたが、このころのたたら経営は順調であったと考えられています。
一方、農民が藩に納める
年貢米は増加し、農耕のみでは生活がだんだん困難となって―中略―年貢米が納められない農民が出るようになったのです。そこで幕府は慶安二年(1649)に慶安のお触れを定め、農民に副業を禁じて農耕に専念することを申し渡し―中略―農民の生活を細部にわたって厳しく取締りました。―中略―このため、農民がたたら製鉄にかかわることができなくなると、砂鉄が不足し、永代たたらの操業は再び困難を極めていきました。
出雲特産である鉄の専売で収入を得ていた(松江)藩は、―中略―鉄から得る財源を守るために、享保十一年(1726)一大改革を行いました(鉄方御法式)。―中略―これまでは鉄師が乱立してたたらを経営していましたが、出雲国内にはたたら十ヶ所―中略―で鉄師九人に限定し、―中略―多額の上納金を課したのです。その補償として藩は鉄山を無償で貸付けたり、たたら従事者の賃金に当たる用米を貸し付けるなどたたら経営の保護を行いました。しかしそれでも農民は農耕に専念することが厳しく求められていました。依然として農民の副業は認められなかったため、生活は貧窮を極め、仁多群の農村では村から逃亡する農民もありました。

(慶安のお触れでは農民を農地に定着させることが立ち行かなくなってきた藩は)検討した結果、次のような改革を定めた(のです)。①慶安のお触れを緩和する。②春の彼岸から秋の彼岸まで農耕に専念し、年貢を完納する。③秋の彼岸から翌年春の彼岸の冬期間は、農耕以外で副業収入を得る方策を採る。(このように慶安のお触れが緩和されたのは)1750年前後ではなかろうかと思います。(こうして、長らく副業が禁じられていた)山間地のたたら製鉄地帯では、(再び)農民の鉄穴流しや駄馬運送稼ぎ(砂鉄や木炭を馬で運送する業務)が可能となり、潤いのある生活に戻ることができました。
このように近世後半の山間地の農村にとって、農耕以外に収入を得ることは生活を支える必須要件だったかもしれません。このころ、たたら場周辺の農村の暮らしがたたら製鉄で成り立っていたことを示す記録が『語り部』に載っています。それによると、元禄八年(1695)、たたらを普請する場合、村や農民自らが(建築)材料や労働力を提供し、早朝から仕事に精を出すことを申し出、これに対し、賃金として一日一人につき玄米六合が支給されれば不服は申し立てないことを鉄師に対して約束しています。たたらや大鍛冶がいかに村の人々の暮らしを支えていたのかがわかります。
次回の後編では実際に鉄穴流しはどんなふうに行われていたのかをご紹介します。

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