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歴史の幸

悠久の歴史を育んできた「斐伊川」

 斐伊川は、島根県奥出雲町と鳥取県日南町との県境にある船通山(標高1142.5m)を水源とし、奥出雲町、雲南市を経て宍道湖に流れた後、鳥取県の日本海まで注ぐ総延長153㎞の1級河川です。奈良時代の初めに編纂された『出雲国風土記』(733年)には「出雲大川」と記され、当時の斐伊川は、出雲市北神立橋のあたりから西に流れを変えて今の神西湖にあたる神門水海を経て日本海に注いでいました。

 河川は、悠久の昔から流域の人々の暮らしを支え、多様な文化を生んできました。斐伊川もその一つであり、上流域の奥出雲町では、1万4千年から2万6千年前の旧石器時代の人々の生活の跡も見つかっています。
縄文時代になると、雲南市でも、木次町北原の斐伊川を見下ろす斜面に、7000年ぐらい前の生活のあとが確認されています。また、瀬戸内や四国方面から、土器や石材などが中国山地を越えて、斐伊川伝いに運ばれ、漁労や狩猟をはじめとした食糧資源の確保が容易になりました。そこで人々の暮らしが徐々に定着するのに伴って、三刀屋川、赤川、久野川などの斐伊川支流域にも集落がつくられました。

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湯村地内を流れる斐伊川

 弥生時代、大陸や北部九州方面などから衣・食・住などの高度な技術や文化が伝わると、集落の規模はさらに広がっていきました。加茂町神原、大東町仁和寺、木次町日登、三刀屋町多久和では、広範な弥生土器の分布がみられ、ここに拠点的な弥生集落があったと推定されます。

 奈良時代には律令政治によって郡制が敷かれ、『出雲国風土記』から当時の地理などの状況を知ることができます。また、その記述から斐伊川中、上流の本、支流域では川砂鉄を原料とした製鉄が行われていたことがわかります。
 

 中世以降、隆盛を極めた製鉄は、山砂鉄を原料としたことから、砂鉄の採取法である「かんな流し」によって、斐伊川に大量の土砂が押し流されるようになりました。その結果、斐伊川は、川底に砂がたまって水位が上昇する天井川となり、大洪水を引き起こす原因となりました。
 

 江戸時代に入ると、度重なる洪水被害は深刻となり、17世紀初頭には、松江藩が「かんな流し」を一時禁止しています。このころから宍道湖の西岸では水害対策に伴う川違い工事が行われ、斐伊川の水は宍道湖に流れるようになったのです。
 一方、「かんな流し」は、山を崩した後、耕作地や生活空間の拡大をもたらしました。さらに、近世には、斐伊川を利用した船運や、中流域では製紙業が興り、斐伊川は産業の発展にも大きく関わってきました。         

 このように、斐伊川は1万数千年前の昔から今日まで、流域の人々の暮らしと産業、経済など、あらゆる営みの源としてさまざまな恵みを私たちに与えているといえます。正に斐伊川は、私たちにとって「母なる川」と言ってもいいかもしれません。
 今日の斐伊川は、治水事業の集大成として、平成のオロチ退治といわれる尾原ダム建設、斐伊川放水路工事が進められ、斐伊川の果たす役割は大きく変容しようとしています。

 ところで、斐伊川と切り離すことができないものといえば、もうお分かりかと思いますがヤマタノオロチ退治に代表される「出雲神話」があります。このことについては次回に記すこととします。

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斐伊川と木次の桜並木

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     大量の砂が堆積する斐伊川下流域                   悠久の水をたたえる宍道湖      

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