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歴史の幸

旧大原郡家はどこに-郡垣遺跡

 郡家(ぐうけ)は、郡ごとに置かれた古代の公的な施設(役所)で、地元の有力者が郡司となって公務を行ったところです。郡家は、役人が公務や儀式を行う「郡庁」や、来客用の宿泊施設でもある「館(たち)」、これらの施設に食事を供給する「厨家(くりや)」、稲などの税を保管する「正倉(しょうそう)」などで構成されていたようです。
 『出雲国風土記』は、その昔、郡ごとに置かれた郡家がどこにあったのかも知らせてくれます。前回お伝えしたように旧大原郡の郡家は移転されたことがわかります。郡家が移転した記録は、大原郡家と常陸国(現在の茨城県)にあった鹿島郡家の二か所しか確認されていません。

 ところで、大原郡家が斐伊郷に移転する前の「旧大原郡家」の所在地について、研究者の間でいろいろな議論があります。その発端となっているのが、『出雲国風土記』そのものにあります。というのは、現在伝わっている『出雲国風土記』は、実際にこの時代に書かれたものではなく、後に書きうつされた写本なのです。この写本は、普段私たちが目にすることはありませんがそこには、「旧大原郡家」は斐伊郷に移った大原郡家の「正西(まにし)」と書かれているのです。そこで、この写本のとおり、方角、距離をたどっていくと大原郡を飛び越えて飯石郡に入り、しかもそこに平地はなく山間地になってしまい、どう見ても郡家があったとされる「平原」ではありません。しかし、写本に書かれた方角の「正西」を「東北」に置き換えると、ちょうど大東町の仁和寺付近となり、『出雲国風土記』に書かれている屋裏郷新造院の方位、距離との比較から、正西という方角は字の間違いではないかとの考え方もあるのです。

 さて、本題に入りましょう。それでは方角は「東北」が正しいとすると、「旧大原郡家」は本当に仁和寺にあったのでしょうか。この問題にかかわる重要な遺跡が平成19年に仁和寺で発見されました。仁和寺地内を走る市道の拡幅工事に伴って郡垣遺跡の発掘調査を行ったところ、道路の脇の下から大型の柱跡が見つかったのです。その後、県道の周辺を調査した結果、大型の柱跡が次々と確認され、一棟の長さが約30mもある細長い建物がコの字型に配置されているらしいことがわかったのです。その規模は四方が45mにもなります。このように、コの字型に配置された建物群は、郡家の中心施設である郡庁の建物の並び方であり、因幡国(鳥取県)八上郡家と同じ建物配置です。

大原郡家跡石碑.jpg

郡垣遺跡地内に建つ大原郡家跡の石碑

 仁和寺には、「郡家」や「郡垣」の字名が残されており、古くから、大原郡家の跡と言われてきました。郡垣遺跡は、まさにその言い伝えのある場所から見つかりましたが、残念なことに、郡家があったころの年代を示す資料はまだ確認されていません。
しかし、公的な機関にしか建てられなかった建物の配置は郡垣遺跡が「旧大原郡家」であった有力な証拠となります。「旧大原郡家」の所在が確定すれば、全国的にも貴重な遺跡になることは間違いありません。                           
  
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                           郡垣遺跡

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