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歴史の幸

記憶にとどめたい『出雲国風土記』の郡名

律令時代の出雲の国は九つの郡から成っていました。『出雲国風土記』には、意宇郡(おうぐん)に始まって飯石郡、仁多郡と続き、一番最後に大原郡の条があります。古代の人々はものや地名を区別するために様々な由来を元にして名前をつけたことが『出雲国風土記』から窺えます。なかでも地名には数多くの由来や神話伝承が残されています。

雲南市が誕生する前は、大原郡や飯石郡という郡名が使われていました。大原郡の名の起こりは『出雲国風土記』に、「大原と號(なずけ)くる所似(ゆえ)は、郡家の東北一十里一百一十六歩に、田一十町許(ばかり)ありて、平原(はら)なり。故、號けて大原と曰ふ(いう)」とあります。(但し、多くの『出雲国風土記』の写本は「郡家の東北」ではなく「郡家の真西」となっています。方角からみると現地の状況との合理性がないため、「東北」と解釈されています。また、郡家とは、斐伊郷にある郡家を指しています。)

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加茂町立原方面まで平地が広がる仁和寺地内。下方は旧大原郡家があったとみられる郡垣遺跡


さて、風土記が作られた時代、平原だったところはどこだったのでしょうか。それが赤川沿いに広がる大東町の仁和寺、前原から加茂町立原あたりの平地だったのです。現在のように宅地のなかった古代、仁和寺の高台からは、加茂町立原が見渡せるほど広い原野や水田が広がっていたことでしょう。前原や立原の「原」から『出雲国風土記』に記される「平原」が元になっていることが偲ばれます。ではなぜこの地域の土地の名が郡の名前になったのでしょうか。実は『出雲国風土記』が作られる前、大原郡を所轄する郡家とよばれる役所がこの仁和寺におかれていたのです。実際に近年、仁和寺地内から古代の役所の建物とみられる柱の跡が発見され、一時期、ここが大原郡の中心地であったことがわかりました。

雲南市の三刀屋町、掛合町、吉田町及び木次町の一部は、かつて飯石郡に属していました。「飯石」の由来は何でしょうか。『出雲国風土記』によると、「飯石と號くる所似は、飯石郡の中に、伊比志都幣命(いいしつべのみこと)、坐(ま)す、故、飯石といふ。」と記されています。

伊比志都幣命は、三刀屋町多久和にある飯石神社の主祭神です。この神社は、古い様式のお社であり、本殿がありません。本殿が必要でないといえるかもしれません。実は、飯石神社の御神体は、拝殿の後ろに鎮座する磐石なのです。はるか古代の人々は、この磐石を伊比志都幣命が降臨する依り代としてお祀りをしていたのです。

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左)飯石神社の拝殿後ろに鎮座する伊比志都幣命が降臨したとされる磐座

右)飯石神社由緒

時は下って江戸時代、享保二年(1,717年)に編纂された『雲陽誌』には「飯石社、往昔一石隕つ。高さ三尺四寸はかり、周囲これに適す。形飯を盛かことし、故に其の地を称して飯石といふ」とあり、後の人々はこの磐石が盛られた飯の形をしていると認識していたことが窺えます。また、三刀屋町六重地内にも飯石神社があり、ここでも伊比志都幣命が祀られています。このように飯石郡という郡名は在地の神様の名前からとられた地名であることがわかります。なお、神様の依り代となる、大石や巨岩を磐座(いわくら)とよんでいます。古代の人々は、ひとの力ではどうやっても動かすことができない、大きなもの、動じないものに神様が宿ると考えたのかもしれません。                                    

                                          
平成16年以降、県内でも市町村合併が進み、『出雲国風土記』に記される郡名が現在でも使われているのはお隣の仁多郡のみとなりました。このように、『出雲国風土記』にみられる郡名は、およそ1300年の歴史があり、最近まで営々とよび続けられた一種の文化財ともいえるかもしれません。古代の響きを伝える郡名が忘れ去られることなく、私たちの記憶にとどめたいものです。

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