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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語21 たたら復原事業(後編)

  
鋤鍬(すきぐわ)で炉に砂鉄を装入する表村下、堀江氏(左)と裏村下、本間氏(右)
公益財団法人 鉄の歴史村地域振興事業団発行 「鉄の歴史村AGORABOOKS1」より

 吉田村では、村下、堀江要四郎氏が経験したことのない、いわば前代未聞のたたら吹きを引き受けるかどうか、難しい選択をすることになりました。村長や村下を交えた協議では実験は行わず施設の復原までにとどめるべきではといった意見も出ました。著者は『語り部』の中で、「私としては無理な操業を村下にお願いするわけにはいかない。たたら操業は取りやめてもらうように(日本鉄鋼協会に)話をしたい」と綴っています。
 この日は結論が出ず、翌日に再度の協議となりました。この協議には日本鉄鋼協会から派遣されていた植木部長が同席されたのでした。植木部長は日本鉄鋼協会の使命を一身に背負っての来訪でもありました。以下にその時の状況を『語り部』から原文のままご紹介します。
 「自分が遠路、老骨を顧みずお願いに来たのは、それなりの事態に立ち至った状況があってのことですから、一応私の気持ちも聞いてほしい。」と前置きして話が始まった。
 資金不足のため、当初とは大きく(計画を)変更せざるを得ない事態になって申し訳ないことの断りがあり、今度の事業を中止すれば、再びたたら復原はできないのではないかと、協会関係者は心配していること。そして部長の立場など誠意をもって強い決意を述べられた。
 しばらく皆が無言であった。そしてその時、堀江村下が顔を紅潮させて突然、「村下の家に生まれ、長い間村下の仕事をさせてもらった私が、難儀な仕事だから(といって)村下の仕事を止めることはできません。このたびの仕事はやれるところまでやってみます。」と強い発言があり、思わぬこの強い発言に岡田氏は感動された。「村下がこれほどの決意をされたからには、私も及ばずながら手伝いをさせてもらいます。」
私も村下のこの言葉には終生忘れることはないであろう大きな感動を受けた。村下職の宿命か、村下職の自信か、職人根性のようなものを強く感じた。


   
たたら製鉄の復原は、半世紀にわたって途絶えていたたたら操業の記憶と勘を
蘇がえらせました
  公益財団法人 鉄の歴史村地域振興事業団発行 「鉄の歴史村AGORABOOKS1」より

 こうして、事業は急に思わぬ方向に動き出したのでした。たたら製鉄復原への準備や高殿の上棟式も順調に進み、地下の構築工事も終わってたたら炉の構築が始まる段階になって、またしてもアクシデントが起こったのです。たたら製鉄復原の要といえる砂鉄が入荷しなくなったのでした。そこで急遽、三刀屋町で採取されていた斐伊川の川砂鉄が使用されることになりましたが、入荷の時期になってこれも不可能になってしまったのです。苦肉の策として米子市の皆生から、いわゆる浜砂鉄を買い入れることになりました。浜砂鉄について堀江氏は、「軽い砂鉄で、飛んで使いにくい」と言っておられたのです。
 このように、世紀の大実験ともいえる菅谷のたたら製鉄復原は、モーターを使った送風、たたら炭ではない通常の木炭、浜砂鉄の使用という、村下の体験したことのない前代未聞のたたら吹きとなったのでした。しかし、1969年(昭和44)10月25日に始まった、たたら製鉄の復原操業は、堀江氏ら四人の村下の技と勘によって無事に成功を収めました。この操業についての詳細を記した報告が角川書店から出版された『山内登貴夫 和鋼風土記―出雲のたたら師』であり、操業の様子は貴重な映像『和鋼風土記』となって吉田町にある鉄の歴史博物館で見ることができます。これから鉄の歴史博物館で記録映像をご覧になる方は、菅谷で行われた、たたら復原事業が様々な困難を乗り越えて行われたことを思い起こしてご覧いただきたいと思います。

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