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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』 ~菅谷たたらの歴史物語⑳ たたら復原事業(前篇)~

       

1969年(昭和44)10月、菅谷たたら山内の近くで行われた日本鉄鋼協会
によるたたら製鉄の復原。4名の村下が参加しました。
  公益財団法人 鉄の歴史村地域振興事業団発行「鉄の歴史村AGORABOOKS1」より

 たたら製鉄は、私たちにとっては、その歴史や製造過程、建物などに興味が注がれますが、鉄鋼関係者や研究者にとっては、”砂鉄と木炭から鋼、鉄ができる”メカニズムを解明することが最大の関心事と言えます。このメカニズムを探ることと、たたら操業の様子を記録に残すために行われたのがたたら製鉄の復原事業でした。
 砂鉄と木炭が炉内で鋼に成熟する。その資料、データは残念ながらありませんでした。このことは、たたら製鉄の技法が村下の一子相伝の秘法として、修練と勘だけで受け継がれてきたためでもあります。
 1968年(昭和43)、たたら製鉄の復原事業は、日本鉄鋼協会によってすすめられましたが、『語り部』によると、当初この復原事業は安来市で行う計画だったようです。しかし、安来市では肝心のたたらを取り仕切る村下の確保が難しいことがわかりました。そこで、当時、堀江要四郎氏が健在であったことから、堀江氏を安来に招聘してたたら製鉄の復原を試みる計画が立てられました。このことを知った堀江氏は、「この年になってたたら吹きができるなんて夢のようで、年は取っているが決して昔の勘は失っていないと思います。何としても立派な仕事をしたい。万一、仕事中に倒れても本望です。家族のものに仕事に行けるように話してください。」と当時、吉田村教育長の職にあった著者に意気込まれたのでした。  
 ところが翌年になって、たたら製鉄の復原場所となるたたらの設置場所が安来から急遽、吉田村(当時)に変更されたのでした。当時、島根県知事であった田部長右衛門氏は田部家の当主でもあったことから、県知事自らたたら製鉄の復原に全面的に協力する旨を田部家に伝えられたほどでした。
 吉田村では大事業を引き受けることになりましたが、事業可否の最大のカギはやはり村下の存在だったのです。この事業を成功させるには、何としても堀江氏の協力を得なくてはなりません。一方で、村下の健康が心配であり、他に代わる人がない現状では村下、堀江要四郎氏の協力は欠かせなかったのです。
 その後、著者は堀江氏にこれまでの経過を話し、健康が許せば、たたらの復原に協力してほしいと伝えました。堀江氏は、あれだけ参加を強く要望しておられたのでその喜びは大変なものでした。目を輝かし、夢を見ているようだと感慨無量でした。
 その後、堀江氏の紹介で鞴(ふいご:たたら炉に風を送る送風管)の修理の経験のある岡田好右氏が協力者に加わり、順調に事業が進むと思われましたがまたもや予期しない事業の大変更が起こりました。計画変更となった主な点は、水車動力による送風を取りやめてモーターによる送風を行うこと。また、木炭はたたら炭を焼かずに通常の炭を購入して使用することなどでした。当然、それは堀江氏の経験のないことでした。
 重苦しい雰囲気の中で、村長をはじめ、著者や堀江氏、岡田氏の協議が続きました。著者は、たたら製鉄で繁栄した吉田村としても、大事な研究実験事業には全面的に協力しなくてはならないと考えましたが、一方で慎重な意見も出始めたのでした。  次回に続きます。

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