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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑲ 菅谷たたら最後の村下(むらげ)~

 

昭和42(1967)年ごろに行われた高殿製鉄炉の構築作業風景
中央が村下・堀江要四郎氏

 前回までは、大鍛冶の大工であった渡部平助氏の話をもとに大鍛冶についてお伝えしました。今回は再び『語り部』から村下・堀江要四郎氏にスポットを当ててみたいと思います。
 なお、堀江氏への聞き取りの際、砂鉄のことを「粉鉄(こがね)」、製鉄(たたら)操業のことを「吹く」、高殿を「たたら」、製鉄炉のことを「釜」というように、堀江氏は独特な言葉で表現しておられました。

 村下・堀江要四郎氏の生い立ち
 要四郎氏は、父・円助氏の長男として、明治19(1886)年に菅谷で生まれました。村下の家で長男として生まれたものは、村下の職を継がなくてはなりませんでした。要四郎氏は、まだ少年の時期、12、3歳で高殿内の下働きをさせられ、仕事を覚えさせられます。村下の後継者は、年とともにだんだん厳しい修業をさせられるのが通例でした。村下の秘法は後継者ただ一人にしか伝えない、一子相伝の秘法といわれ、15歳ともなると本格的な村下修業となり、円助氏の指導は厳しいものでした。そして、明治39(1906)年、20歳で菅谷たたらの村下となりました。
 村下は、たたら操業最高の技術者で、製品の出来高(重量)と品質について責任を持たなくてはなりませんでした。また、高殿内での労働統制と神性の保持に至上権を持っていました。父の円助氏は最高の技術者であり、金屋子信仰に厚く、仕事、信仰については絶対に妥協することはありませんでした。要四郎氏は時々、村下修行の辛さを漏らしておられ、涙が出ることもありました。
 村下の秘法といわれる鉧吹き(けらぶき)は、粉鉄や木炭の違い、その日の天気などによって微妙に左右され、技術だけではどうにもならないことがあります。そんな時には勘に頼らざるを得ないのですが、この勘は長い間の苦しい修業から体得したものでした。

 村下仲間の気質
 村下さんたちは自分の技術について自慢はしません。特に鉧吹きは微妙で、思わぬ間(操業中)に思わぬ変わり方をします。その間に村下の鋭い勘によって操業に対処しますが、勘が的中するのは技術以前のものであり、金屋子さんのお蔭があったと信じて、決して自分の自慢をしないのが村下の職業柄(気質)でした。
 それぞれの村下は、父親からの一子相伝の秘法を受け継ぎますが、当然その秘法は同一ではなく、技法や理論はそれぞれ異なっていたと思われます。したがって昔から、「村下三人寄ると話すことは三人とも違っている」などと言っていました。このように村下たちは自分の技法に自信を持っていたのですが、堀江氏の場合、自分が培った技法よりも父親の技法を絶対のものとして信じていたと思います。

『語り部』の著者・田部清蔵氏が、堀江氏から様々なたたらの話を聞きとられてからおよそ半世紀がたちます。しかし、菅谷たたらの歴史は大正10(1921)年で止まったままですので、氏の語りの内容は、そのまま菅谷たたらの歴史を物語っているといえます。


        

 晩年、堀江氏は天気の良い日には桂の木の根方に腰をかけて物思いにふけっておられました。一度だけ、「ここに座っていると、時には鞴(ふいご)の音や釜出しの音が聞こえることがある」と言われ、たたら操業が行われていた往時の思いにふけっておられたと思われます。最後の村下・堀江要四郎氏は、昭和49(1974)年6月、89歳で亡くなりました。亡くなる4年前には、わが国が世界に誇る古来の砂鉄精錬技術に関する貴重な資料の提供があったとして、島根県教育委員会から表彰状が贈られています。
 実は近年、といっても46年前になりますが、堀江氏の生前中に、一度だけ菅谷でたたら操業が復原されたことがありますが、このことを知る方は少ないと思います。「日本鉄鋼協会」がたたら製鉄の解明と記録保存を目的として行ったものですが、この復原操業も堀江氏の決断をなくして実現しえなかったと言えます。次回からは、田部清蔵氏が語る復原操業に至るまでの秘話と実際に行われた操業の様子をお伝えしていきます。

参考 :HP 雲南市子ども応援団 うんなんの「ひと」「もの」「こと」

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