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歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑱~ 大鍛冶あれこれ(下)


 
  
炭山の木を切る場所の配分は、「かまわけ」とよばれる、くじ引きで決め
られていました。「かまわけ」は、米を入れた一升枡にこよりで作ったくじ
を立ててくじを引きました。
                        平野 勲 画
                        (菅谷たたら山内生活伝承館)

大鍛冶と木炭
 菅谷たたらの歴史物語⑤では、たたら操業に使う木炭についてお伝えしました。今回は大鍛冶で使われる木炭について『語り部』からご紹介します。
たたら操業で用いられる木炭(大炭)と、大鍛冶に用いられる木炭(小炭)とは大きな違いがあります。どちらの炭も、たたら炭(大炭)を焼く専属の山子(やまこ)によって焼かれるのですが、たたら炭は広葉樹などの幹を使うのに対し、大鍛冶に用いる小炭は、大炭用に伐採した木の枝木を焼くことになっていました。かつて(幕藩時代)鉄山は、藩が所有していたため、藩が鉄師に貸し出したもので、枝木であっても少しの無駄もしてはならないという決まりがあったのです。
 小炭の焼き方も大炭とは全く違っていました。大炭は粘土で炭窯を築いて焼くのですが、小炭の場合は炭窯が必要でなく、山の斜面を円形に掘りくぼめ、土を周囲に積んでその中に枝木を集めて燃やします。枝木が燃え終わった頃合いを見て土をかけ、火を消すと小炭の出来上がりです。山子の本業は大炭を焼くことでしたので、一日の小炭の生産量はよくわかっていません。小炭は湿気を吸収しやすいため、焼いた小炭はその日のうちに大鍛冶屋に運びました。そうすると小炭の焼き賃と運賃がもらえるようになっていたのです。
 一方、小炭は、一般の農民でも焼くことができました。普通の人で一日の生産量は一升八合から二升ぐらいといわれていました。大鍛冶屋では、直径約90㎝、高さ約90㎝の竹かごに小炭を山盛りに入れた一杯が一升とされていたのです。
『語り部』には、一軒の大鍛冶屋で一日に十一杯から十三杯の小炭が消費されたとありますので、大鍛冶にとって小炭の確保は重大事だったのでしょう。製鉄稼業(たたら経営)では、焼子(山子)従事者の数は田部家が一番多く、田部家ではたたら従事者全体の半数を焼子(山子)従事者が占めていたのではないかと想定されています。

   
       炭焼き山の位(良し悪し)を決める見立て(話し合い)のようす
                      平野 勲 画
                      (菅谷たたら山内生活伝承館)

 山子の報酬
 大鍛冶屋に運ばれた小炭は、一升につき、焼き賃かいくら、運賃がいくらと決められていたと思われますが詳細は分かっていません。一方で、昭和44年(1969)に菅谷で行われた、たたら操業の記録が記された『和鋼風土記―出雲のたたら師』(角川選書183)に、明治40年(1907)当時、たたら操業に従事した職人の報酬が記されています。それによると、山子は日当が米二升、焼き賃が米六合とわずかな金銭と記されています。ただしこれは、小炭ではなく、たたら炭(大炭)の炭焼き報酬と思われます。村下の報酬でも日当が米一升二合、日給が十銭とありますから、山子の報酬は、重い炭荷の運搬も含めて相当な重労働の対価といえるでしょう。
 
  
        共同で行われた炭焼き山の道の整備作業    
                       平野 勲 画
                       (菅谷たたら山内生活伝承館)
    
作業場を移動しながら営まれた大鍛冶
 小炭は、重量はありませんが荷嵩があり、それを背負って運ぶのですから小炭の運搬は大変でした。このため大鍛冶屋は一か所にとどまるのではなく、小炭が焼かれている炭山の近くに大鍛冶屋を移動する方策がとられていました。そのため、大鍛冶屋は山で焼かれた小炭が集まりやすい場所に設けられ、次の炭山に移動できるように簡単なつくりとなっていました。 

平野 勲
1923年(大正12)~2010(平成22) 島根県出雲市出身
島根県内の中学校に勤務後、画業に入り、1975年(昭和50)日本漫画家協会賞受賞。
伝承館には、画伯が菅谷たたら山内に関心を持たれ、直接、古老から聞きとられたことを基に、描かれた絵が展示してあります。

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