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歴史の幸

歴史の幸 菅谷たたら山内元小屋発掘調査情報~中銅場跡を発見~


   
       発掘調査前の元小屋西側  市道側より



    黄枠:石列  赤枠:鍛冶炉跡  白枠:中銅場跡  東より
    

菅谷たたら山内では、現在、元小屋の保存修理工事を行っています。元小屋とはどんな建物だったのかは前回の「歴史の幸」でもお伝えしているところです。ところでこの元小屋は、初めから現在の規模だったのではありません。建物の棟がさらに西側に延びていたことがわかっているのです。つまり、建物の中に水車があったわけですが、その建物では何が行われていたのでしょうか。
 その前に、建物が西へさらに延びていたとすれば何らかの痕跡があるはずです。元小屋を以前の建物規模に復原するためにはこの問題を解決しなければなりません。そこで教育委員会では建物の規模を確認するための発掘調査を行いました。
 発掘調査を行ったところ、地表面の直下から石列(画像の黄枠部分)が現れました。柱の土台を置く礎石と考えられ、建物があったことがわかりましたが石列は南側の一列しか見つかりませんでした。この石列から元小屋の建物が西に延びていたことが確かめられましたが、このほかにも大きな発見がありました。地面の下から石に囲まれて方形に区切られた区画(画像の白枠部分)が現れたのです。実はこの区画が高殿の前にある大銅場と同じ機能を持つ、この場所の中心的な施設だったのです。

   
 地面の下から現れた滓の固結部 錘を落とすため、中央が窪んでいます

 菅谷たたら山内では、たたらで生産された鉧の破砕が大銅、中銅、小銅と三段階に分けて行われていたことがわかっています。そして大銅場で粗く砕かれた鉧が中銅場とよばれるこの施設に運ばれて大銅場のように水車を利用し、吊り上げた錘を落下させて鉧をさらに細かくしていました。砕けた鉧や滓の破片が長い間に堆積して固まり、錆色(長方形の部分)になったのです。錘の真下には鉧塊を置く金敷きがありましたが銅場の操業終了の後、取り出されたようで金敷きはありませんでした。
 中銅が行われていた作業場ですが、発掘調査によって意外なことも分かりました。中銅場の床面の下から鍛冶炉の跡が見つかったのです。つまり、中銅場の操業が行われる以前、ここでは鍛冶作業が行われていたことになるのです。画像の赤い円形の部分が鍛冶炉跡ですが、これは銑鉄(ずく)から包丁鉄の前段階といえる左下(さげ)鉄を作り、これを何度も鍛錬して製品となる包丁鉄に仕上げる大鍛冶の炉の可能性が高いことも分かりました。なお、「菅谷たたらの歴史物語⑯」でふれたように大鍛冶には本場と左下場に一基ずつ鍛冶炉があります。本場で包丁鉄に仕上げるのですが、検出した鍛冶炉の近くには鉄の鍛錬によってできたと思われる滓の固結部が見つかっているため、もしかしたら画像の鍛冶炉跡は本場の鍛冶炉跡かもしれません。

     
    本場での左下鉄の鍛錬のようす  (復原:鉄の歴史博物館)

 ところが不思議なことに、田部家の記録には菅谷たたら山内のどこにも大鍛冶があったという記録は残されていないのです。菅谷たたらで作られた銑鉄は吉田町の大鍛冶屋や杉谷大鍛冶屋に運ばれたと考えられていますので、この謎については今後の課題となりました。
ところで発掘調査というのは、やみくもに調査を行うというものではありません。中銅場跡や鍛冶炉跡の全容を解明するためには遺構をすべて検出しなければなりません。結果として遺跡を破壊することになりますが、それでは本来の調査目的から逸脱することになるのです。したがって今回は必要最小限の発掘調査しか行っていません。調査区全面を掘り下げていないのはそのためです。
他のたたら場の記録によると中銅場と小銅場は水車を挟んで対の位置にあることが記されています。今後は元小屋の中にある小銅場について位置を確認する調査を行うこととしています。

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